シニフィアンは、フランス語で動詞 signifier の現在分詞形で、「指すもの」「意味するもの」「表すもの」という意味を持つ。
それに対して、シニフィエは、同じ動詞の過去分詞形で、「指されるもの」「意味されているもの」「表されているもの」という意味を持つ。
ゴットロープ・フレーゲの指摘にもあるように、シニフィエにあたる「意味」ないし「概念」は「指示対象」とは必ずしも一致しない。この意味において、「指示対象」はレフェラン(référent)と呼ばれ、シニフィエとは区別される。
実在するりんごとイデアのりんごは違うみたいな話っすかね
シニフィアンとシニフィエを拡大解釈して色々考えてみたいので記号論を学びたいかも
以下雑ななにか
シニフィアンの強度が高ければシニフィエなんてどうでもよくなる気がする
意味を表す以外の価値の発生?シニフィアンの自己目的化?
シニフィエがどうでもよくなるほどにシニフィアンの程度が高いことは一握りだろうし、普通はシニフィアン/シニフィエから価値を見出そうとするはず
逆にシニフィアンの程度が低ければ低いほどシニフィエ気になりがち?
その行為の意図はなんなんすかねみたいな
まあでもシニフィアンがおもんなかったらシニフィエに共感できても微妙なのかもしれない
シニフィアンとシニフィエの両方の強度が高いことが望ましいのか?
平たく言えば意図にも納得できるし意図を表すものが意図を表す以外の価値も持ってると嬉しい?
まあそんな気はする
映画におけるストーリーはシニフィエではなくてシニフィアンで監督が映画でやりたかったことがシニフィエ?
シニフィエがあからさまだと萎えるからある程度余白のあるシニフィアンであるべき?
色々書いたけど別にこれらってシニフィアンとシニフィエという語をわざわざ用いなくても表せれるだろうし、こんがらがりを感じなくもない気持ちに